教師の仕事と技術

斎藤喜博
非常に昔の本なのに、リアリティがある。生の声が伝わってくる。教育って、授業って、子どもって、そうだよな、と思う。長い実践を経験してしか得られない言葉がある。理論としてでなく、実感として生まれた言葉。
 発問から得た、解答によって、授業を成立させていく、という考え方。これが自分の中になかった。単純に、授業をカタチとして、成立させるために、「発問」というのはあるのかと思っていた。子どもを授業に集中させるため。討論型の授業にするための「発問」というのとは、もう一つ違った、レベルのあがった考え方だと思う。発問によって、意図的に対立構造を作り上げる。もしくは「分からない点」「考えないといけないこと」をうかびあがらせる。授業の構造を、発問の答えによってつくる。今はどの段階にいて、次に何を考えないといけないのか。これまで知っていることはどういうことで、今習おうとしていることは、それとどういう関係があるのか、など。
 また、当然、授業は生ものだから、教師の発問の意図とは違った答えが返ってくることもある。だけど、そうしたときでも、即座に、臨機応変に、その発言を授業にとりこめる。そうした技術、考え方、柔軟性も必要だ。

 そういう「教えてやる」という姿勢ではだめです。いつでも、教えることによって、自分が新しい、先にある世界に移っていける、自分自身が豊かになっていく。そこから教育とか授業とか子どもとかも学びとっていける。そういう考えでいかないと、授業というものは成り立たないわけです。

 授業というのは、子どもの事実、教材に事実にしたがって、組織され構成されていく。その結果として新しいものをつくり出していくものでなければならない。

 教師の働きかけによって、子どもが内面から自分を変えていく契機、プロセスに具体的に注目したとき、子どもの成長に役立つような理論とか、子ども観とか、教育観とか、方法原理とかも始めてつくられていくのだ。

 発問によって、生徒を土俵にのせる。だんだんと生徒を攻めていき、追いつめて、表現させる。子どもの表現の具体や教材にそくして、攻撃した場合のみ、有効。
 発問は、具体的で、限定されたものでなければならない。

 子どもの発言間を対応させ、他の子にも活かす。ただ順に物を言わせるのではダメ。
 生徒の発言の、底にあるものまでを、読み取り、みんなの問題にする。

 教育の技術は、教師の願い、生き方が、背景にあって、はじめてやくだつ。

 退屈な授業は、教師に責任がある。教材の重要なところ、不要なところがわかっていない。子どもの発言の重要度が識別できない。
 テンポ、リズムの変化をつくれていない。川の流れのようなものである。
 ⇒「構成」がしっかりしていないと、いけない。

 教師の具体的な指示、言葉が、イメージとして、子どもに伝わった時、子どもの論理となる。
 それが、教育での助言、指導。
 イメージというものについて熟知していなければならない。それを働かせるための具体的な言葉を知っていなければならない。