わかったつもり

 文と文の関連性が分かったとき、文章がわかる。文と文の関連性がつながったとき、理解できる。

 設問によって、より深い読みを求められる。設問によって、文章と文章の関連性を考えさせられる。設問によって、ある文とある文をつなげることが求められる。
 一読しただけでは、わからない。本文を読んだだけでは、「わかったつもり」の状態。設問によって、どういった部分の読みが必要であるのかがわかる。一読しただけではわからない、文章の関連性を求められる。よって、設問からはじめに読んで、どういった部分に注目して読む必要があるのかを知っておく必要がある。はじめに、設問を読んで、本文の「どの部分とどの部分の関連性をつかむべきなのか」を知る必要がある。
 国語の問題には、一読しただけで解ける問題と、解けない問題がある。そのため、まずは設問を見ておくほうが良法である。

 文章間の関連性、緊密度が増すと、「よりわかった」状態になる。

 同じ文章を、失業者、裕福な人、それぞれを主人公と想定することによって、文章の受け取り方が大きく変わる。スキーマの働き。スキーマと言うよりは、「思い込み」が大きく作用するのだと思う。だから、生徒にとっては、小説などを読むとき、自分の性格と主人公の性格を勝手にあわせてしまう傾向があるかもしれない。その時、大きく読解がずれる可能性がある。評論に関しては、そうした部分が少ないだろう。随筆、小説に関しては、「自分に重ね合わせて読む」というよりは、「客観的に主人公の性格を把握する」という点に注目してもらうことに趣を置いた方がいい。

 新鮮な文章が挿入されている場合は読み飛ばしをしない。単調な文章である場合は「読みと飛ばし」をする。「正倉院シルクロード」のような文章は、要注意。単調で、しかもなまじっか知識があるからこそ、読み飛ばしをして、間違った知識が注入される。こういう「説明調」の文章こそ、精読が必要。簡単と思える単調な文章こそ、読み間違いが起きる原因がはらんでいる。

 読書の理解を補う、スキーマが、間違った読みにも影響する。スキーマは諸刃の剣。「わかっている」と思うところは読み飛ばしをして、自分のスキーマによって補う。そのため、誤読が生じる。

 「結果から」わかったつもり。
 結果を読んだことによって、その結果が、途中の過程にも影響する。結果を知ったことによって、途中の主人公の気持ちの変化、登場人物の関係性の変化の理解を妨げる。あくまで、読解は、本文の文章の流れにそった「変化」を重視すべき。最終問題の本文の内容選択の問題などで、このひっかけが使われそう。途中の変化を無視した選択肢よりも、途中の経過を記述している選択肢の方が信憑性がある。
 例えば、2人の友人が仲良くなっていくような物語の場合において、この小説の内容を選択する時、「2人は仲の良い人物であった」よりは、「2人は仲がよくなかったが、途中から変化した」の方が、正解となる確率が高いかもしれない。結果を知って、全体を解釈して大きく誤読が生じさせるような選択肢よりは、ある程度と中の経過を反映した選択肢の方が、安全。

 スキーマや、基本的な知識、きれいごと、などを当てはめて文章を理解していくのは危険。むしろ、少しくらいの矛盾や、齟齬を感じながら、厳密に文章と文章の関連性を考えて読み進めていった方がよい。
 文章問題を解くときには、単純に「自分がもっていた考え方・知識」にそうよりは、むしろ「まっさらな状態」に身をおいて、純粋に本文中の言葉から、考えを進めていった方がよい。設問をとく時は、特に「自分の思い込み」よりは、「本文中の言葉」を信じること。

 センター試験での選択肢。もっとも適切なものを選べ」の正解は、問題作成者の解釈が絡んでいる。そのため、もっとも本文と"整合性のある"選択肢を選ぶ結果になる。かならずしも、本文の正当な解釈にはなりえない。

 いい本だったな。この本、これまで2回くらい借りていたと思うけど、その時はこの本を読み込めなかった。国語を教えるようになって、はじめて、この本に入り込めた。やっぱ、明確な問題意識をもつと、違うものだな。
 一回借りて、わかんねぇ〜なって思っても、もっかい借りてみて分かることもあるんだな、と。