発問・板書・教材研究のコツ

要約

 小学生対象だからか、ある程度、自由。どこもを伸ばすほうに趣を置く。大村はまさんの本のように、「教え込む」ことを第一としない。
 子どもの考えを引き出す。教師の意図に従った回答のみを重視しない。発問はできるだけ子どもが考えやすいように具体的なもの。それでいて、回答が一元化しないような質問であることも一方で重要。とかく、教師の意向に沿った答えを導き出すことだけに集中するのは良くない。

 「子どもの捉え方、接し方」
 なんというか、愛が必要なのだと。全身全霊の。正面から向き合う、そして理解する。わかってあげる。至極当たり前のことだが。子どもにとって、大人の愛、理解、受け止められること、は必要である。それに対して、大人は、子どもを軽率に扱いがちである。得てしてそうなる。だがしかし、自分が子ども時代の時を思い返してみればいい。子どもは真剣に大人に向き合っている。そして、子どもは大人の反応が真剣であるかどうかはすぐにわかる。「子どもだから」という大人の見方は、たいていの場合、不遜である。
 それと、全員を対等に見るということ。これも自分が子どもだったときを考えればよい。得てして、教師になれば反応のよい子どもにばかり対応しがちだが、子どもの側に立てば、その不平等もいっっぺんに分かるものだ。教師の側からすれば、活発な子どもは、授業をやっていく上で助かるという面もある。そうした教師の側の都合も、ちゃんと生徒はわかっている。そこに生じる不平等というやつ。そこに目がいかない『教師』側のデリカシーの無さも。
 ある子どもが理解できなかった場合、理解できない側に責任があるのだと。

書き写し

 その教材のもっている本質にどう対面させ、そこから、なにを、どういう手続きでつかみとらせるかという、あらかじめ準備され、用意された作業を有効に組織しなければならない。そのばあい、どんな手続きで、どんな作業をつみあげていくかは、基本的には教材が規定するのだが、そのためのゆたかなたくわえが教師のなかになくてはならない。そのゆたかさを授業の技術とよんでよい。

 詩の鑑賞のための授業の方法としては、①まず子どもたちからの印象や感想を発表させて、それを手がかりにしながら内容の読みにはいっていく方法、②詩の場面構成をおさえて、叙述に従って読みをつみかさねていく方法、③詩全体の心像をひきだすような発問を手がかりにして、子どもたちの印象や感想を総合的分析しながら読みすすめていく方法、④詩の中核部分についての教師の問いかけによってはじめる方法など、さまざまな展開のしかたがある。

 なぜ、この授業が退屈なものになったのか。なぜ、子どもの中にどよめきがおこらなかったのか。
 教師が、一人の子どもの発見をそのまま、まるごと肯定して、それを前提として授業を進めたところに、この授業が平板になった理由がある。「事実と解決方法と意見はあるけれど、理由がぬけています」と子どもがいったとき、教師は「そうですか。理由にあたるところがぬけているっていう意見がでましたが」と、子どものいった前半をそっくり肯定して問いをだしている。
 すると、子どもたちは「事実〜はあるけれど」という一人の子どもの発言に疑問をさしはさむ余地はないと思いこまされてしまう。そして「理由がぬけている」ということだけで考えることになる。教師の敷いたレールの上をいかに走るか、ということだけになる、今度は先生は何をいわせようとしているのかという、教師の心をよむことが子どもたちの関心事になる、自問自答したり、自分の考えをつきぬけて考えようとしなくなる。無難さだけを探し求めることになり、それができる子どもだけが動き、それができない子どもは耐えることになる、もはや、このとき、授業は、みんなのものでなくなる。心を動かすのは、それについていける子どもだけになる。うわべの姿だけからものごとを推し量ることにならされている子どもだけが、生き生きとしているかにみえるだけである。

 子どもの中に波紋をおこすということは、子どもたちの安易さに妥協し、おもねることから、子どもを一歩でも高めるためのゆさぶりを子どもに投げかけることである。その意味で、授業の中で、子どもが頭を抱えこみ、もがき、葛藤するための問いを用意することである。

 まず、子どもたちのなかに、生き生きとしたイメージを広げるための発問を基礎にしなくてはならない。

 作品に登場してくる人物の行動や心理について、なぜそうなるのかというところまでとらえさせなくては、作品としてあらわされている現象の本質をつかんだことにはならない。なぜそうなるのかという必然性をつかむためには、その場面、場面のもっている意味を、全体のつながりのなかでおしはかってみなくてはならない。
 そのためには、部分部分で描かれていることがらや感情を、全体のつながりがはっきりしたあとで、もういちど読みなおし、つなぎあわせ、おしはかりながら読みを深める仕事をすることになる。

 子どもたちの発言のなかにふくまれている事実を、子どもたちみんなに広げ、つなげながら、その事実のなかにある核心を引き出すことでなくてはならない。
 ともすると、あらかじめ教師が求める解釈や解答にそっくりあった発言だけを取りあげ、すぐにみとめてしまうような授業をみることがある。〜。
 子どもの発言をどうとりあげるかは、教師が子どもの心をどう読むかということでなくてはならない。
 〜。むしろ本当はこの子はなにをいいたいのか、いおうとしているのかを、子どものことば足りなさを補っていくようにしたい。それは、子どもたちが、表現の仕方がわからないためにおこる場合もある。〜。そのような子どものことばの足りなさを、補ってききとどけようと心がければ、授業での子どもの言葉はどれもみないい言葉だともいえる。
 〜。
 子どもたちは、日常使用している言語現象を整理する能力をもたない。きわめて感覚的なつかみ方しかできない。だとすれば、子どもたちの感覚的主観的なことばに内包されている事実をとりだすような、教師の発問(助言)が必要だということになる。

 黒板があるから板書をするのではない。子どもにノートをとらせるために板書をするのでもない。板書しないと授業がうまくいかないからするのである。授業のために板書するのだ。
 〜。
 授業のためとは何か。子どもの学習意欲をおこさせることもある。子どもの考えのすじみちを整理してやることもある。問題意識をかきたてることもある。ことがらの関係をはっきりつかませることもある。具体的事実のなかにある法則や一般性をつかませることもある、イメージをゆたかにさせることもある、一時間の授業で学びとったことを全体としてつかませることもある。きわだったことがらをしっかりとつかませることもある。考えや思いのすじみちを事実のすじみちを結びつけさせることもある。

 一人ひとりの子どもの事実をとらえるために、教師はぜひメモをとるくせをつけておく必要がある。メモがあれば忘れないですむ。そのことをとおして、子どものわずかな動きの変化、成長についても、こまかに心を動かし、感じとることができるようになる。子どもたちにしなやかさを求めるならば、まず、教師自身が心しなやかで、感受性ゆたかでなければならない。子どもたちは、親のすがたを見て育つと同時に、教師の姿をそのまま写しながら生きていくものである。教師の人格が子どもを教育するといってもよい。

 「おまえら、平の家が、どうして貧乏か、わかっているのか、平の気もちになって、考えたことがあるのかっ」
 〜。
 わたしもいつの日か子どもたちに、そうせずにはいられなくなっていったひとことが子どもの目をおおきくひらかせることになる、そんなことばを持ちたいと思った。人間として生きることが、教師として生きることにそのままつながるような教師になれたら、と思った。
 わたしの何気なしにいうことばが、わたしのごく自然なしぐさが、人間ってすばらしいものだと子どもたちの心をときめかす、そのような日がいつかくるだとうか、と思ってみた。その日がくるまで、わたしは、もしわたしの前で道がふたつにわかれたら、求めて急な坂道を選んで登りつづけようと思った。もし、ゆるやかで、息をはずませずに歩める道を選べば、わたしはいつまでも安易さに身をしずめてしまうだろうと考えたからだ。