文学的商品学

斉藤美奈子

文学的商品学

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 現代の青春小説は、たいがい一人称で書かれています。そして一人称は、登場人物の服装を描くにはまったく不向きな形式なのです。

 それより心配なのは、風俗小説が最大の武器である描写を捨てて「説明」や「報告」に走ってしまうことです。

 いまやほとんどテレビ中継に取って代わられたとはいえ、ことばだけでゲームを伝える方法論が、野球の場合には確立している。換言すれば、ことばからゲームをイメージする訓練が読者の側にもできている。書き手と読み手のコミュニケーションの問題として考えると、これは非常に有利なことではないでしょうか。

 書くことでも読むことでも、あらゆる知的な作業には、人間の尊厳を取り戻す力がある。葛西善蔵小林多喜二林芙美子もそうだった。貧乏小説だけではない。獄中記も闘病記も女学生の失恋日記もみんなそう。

 なぜ「書くこと」で人は困難を乗り越えられるのか。感情をぶつけられるからではなく、冷静に客観的に自己と周囲を観察する機会になるからじゃないのかな。その意味でも、表層の表現はけっして枝葉末節ではないのです。

・小説を楽しめるようになったのは「どんな風に読んだっていいんだ」と気づけたから。

 斉藤美奈子の本の面白いところは、まさに最後に本人が述べているように、「どうな風に読んだっていいんだ」という姿勢にあるのだと思う。一つの小説の細かいところにチャチャをいれるところから始まり、次に反対に良い方の例を取り上げる。そして、そこで悪い方の悪さがどこから生じているのかをくっきりはっきりさせる。読者は最初のどころのチャチャを入れられた部分を読んで、面白おかしく感じるが、次の良質の本との対比において、もう少し大きな問題に気づくことになる。最初に例に上げられた本の見識の狭さを、良質の本との対比によって気づかされるのである。
 そして最終的に、一つの視点から、小説そのものの構造を暴きたてようとするのである。最初の「ファッション」とところはその展開が秀逸。服装の描写の批判からはじまり、なぜ、それが「そう書かれざるをえなかったのか」ということろまでを突きつめていく。


 あとは斉藤美奈子さんの本を読みながら感じたことを徒然と。
 この人って、人が見ているっていうか、書いた人の方を見てるんじゃないかとか思う。意外としっかり。テレビで話している人に対して、突っ込みをいれるように、書かれたものについて突っ込んでる。「あんたそんなこと言うけど、現実無理やん!」って感じで。「さっきは違うこというてましたよ」とか「それって貴方だけの考えじゃおませんか」ってな具合かな。基本、人間の書くことなんて、突っ込みどころ満載なはずなんだけど、意外とそれをうまいことやる人がいなかった。
 この一年で学んだことは、「書物って矛盾だらけですやん」ってことだった。それを強烈に知らしてくれたのが斉藤美奈子だったと思う。うむ、ここに来て集大成な感じだわ。
 本ってそんなに畏まって読む必要なんてないのだな、と。欠点がいっぱいある一人間によって書かれているもんなんだっていう、基本的なことがわかったな。