ダンス・クリティーク―舞踊の現在/舞踊の身体

勁草書房

ダンス・クリティーク―舞踊の現在/舞踊の身体

ダンス・クリティーク―舞踊の現在/舞踊の身体

 ピナ・バウシュフォーサイスによって私たちは身体の見方を一新することになった。〜。〜、見慣れたはずの身体が突然既知の意味を失ったように見慣れぬものとなり、新たな相貌をもって蘇ってくるのを経験することである。それは新しい身体との遭遇であるというより、気がついていなかった身体の在りようを発見することであり、私たちのこれまでの身体認識があまりにも安易で自分の身体についてすら何も考えていなかったということを自覚することでもあった。

 『ゴドーを待ちながら』はまだ観客がコスモスの回復を期待していた時期に書かれた。ゴドーがやってこればコスモスは回復するだろうと観客は思っている。だがゴドーはついに現れない。つまり劇的なことはついに起こらない。ゴドーを待つ二人は、たぶんゴドーが来ないことを知りながら、ゴドーなして生きてゆく決意ができない。だから待ち続けるほかはない。それは崩壊したコスモスが決して回復しないことを感づきながら。カオスの中に生きる決意のできない現代人の姿である。

 多くの演劇が問題にしてきたのが、コスモスの回復であり、次にオアシスの発見であったとすれば、ピナが問題にしているのは、なぜ人はコスモスやオアシスを必要とするのかという事である。カオスを生きねばならぬ宿命が悲劇なのではない、人はカオスに耐えられないようにできていることが悲劇なのである。他者との絆の不可能が悲劇なのではない。人が他者なしにたえられないようにできていることが悲劇なのである。ピナ・バウュの舞台では、空しいと知りつつ人を待つ者、応えられぬとしりつつ呼び続ける者、取り返せないとしりつつ過去を追憶する者たちが登場する。私たちがそこに見出すのは結果としての絶望や、動機としての希望というより、ただそうせずにはいられない衝動である。それは人が「自己」をなんとか救済しようとする根源的なパトスとでもいうべきものである。自己の<危機>に際してパトスが他人の眼にもわかるように外へ発現するとき、私たちはそれを「劇的」と呼ぶのであろう。とすれば、これらの衝動こそ世界に向かって「なぜだ!」と叫ぶ、あの「劇的なるもの」の根源ではあるまいか。

 しかしここでは、そもそも人と人との関係がない。男は女の方を見るけれども、その存在を認めない。彼が見ているのは肌に映った映画であって、女の身体ではない。そして女は終始男を見ない。彼女の視線はどこにも向かおうとしない。女はひたすら受動的である。見ることをしないだけでなく、見られることによって自分の身体を確かめることさえしない。見られることが容易に見せることに転化できたように、実は<見られる>とは自分の存在を認知するのに必要な<関係>の実現であり、この意味で見られることは実は自分のための行為なのだ。だから人は見られようとする。それは受動的行為である。しかしピナ・バウシュの舞台でいたぶられる女は、行為のない受動態である。

 やっぱり舞踊、ダンスも、小説の「ポストモダン」的な考え方があるのだと思った。ピナ・バウシュって、それまで公然と認知されてきた「舞踊」というものの前提を覆す試みを行った人なんじゃないかと。
 ピナ・バウシュの舞踊を見たことがないので、なんとも言えない面があるが、やっぱり普通にバレエ見てても、なにか壊せるものがあるんじゃないかと思うし、バレエが生み出す"美"とは、もっと違ったものができそうな気がするし。そもそも美しくなくとも、舞踊そのものが何か「哲学的な」意味を生みさせそうな気もするし、っていう。
 だから、そういうことピナ・バウシュはやったんじゃないかと思う。それも、すっごくうまく。

 スザンヌ・ランガーは、観客が舞踊に見ているものはイリュージョンとしての力の布置なのだという立場である。〜。まだ認知されるものが力の図式であるという点で形式主義に含まれようが、その図式が物体の動きではなく、身振りによって意味された生命の運動の図式であるとする点で禁欲的な形式主義とは異なる。〜。ただこれを少し修正して、舞踊において我々が見ているものが、具象絵画や演劇における物語世界という意味のイリュージョンではなく、現実の身体の動きというナマの媒体でもなく、別の存在位相にあるとするなら、次に紹介するレヴィンの形式主義と親縁をもつであろう。

 彼以前のバレエ空間は観客にとって身体的に手が届くように思えたが、バランシンの空間はもはや地上にはないように見える。そういう身体は明らかにイリュージョンである。観客が見ているのは視覚的イリュージョンの世界であって、物体の世界ではない。これがレヴィンのいう「バランシンのフォーマリズム」である。

 この論文の重要性は、ある種の舞踊の本質が身体の提示にあること、しかもその身体は日常の身体とは異なり、いわばイリュージョンとしての身体であることを指摘したことにある。即ち私たちが舞踊に見ているものは、現実の身体そのものでもなければ、動きそのものでもなく、実はその虚像、すなわちヴァーチャルな身体、ヴァーチャルな動きなのだということである。〜、舞踊の芸術的価値が成立している領域は、抽象的な動きそのものでも、なまの身体そのものでもなく、つまりダンサー自体の物理的存在の側にはなく、イリュージョンという言葉が適切かどうかはともかく、観客の視線によって生じ、観客の認識の場にのみ存立する第三の領域にあるという考え方である。ここに私たちは「舞踊を見る」という作業がいったいどういうものであるのかを問わなければならない。