渋井修「素顔のカンボジア」機関紙共同出版 (1993/05)

P145

 カンボジアの歴史の中で、彼らがみずからの基本的権利というものを自覚してこなかったことも、ポル・ポトの言いなりになった理由の一つではないかと思う。

P183

 私は、日本には別の「貢献」のあり方が可能だと思う。つまり、人づくりだ。

P212
 カンボジアの社会構造に問題。
 ①神の代理としての王。縦の結びつきが社会の基本に構成
 ②小乗仏教。戒律仏教。上からの「〜せなばならぬ」「〜してはならぬ」
  ⇒個人対個人の横の関係/対等の関係が生まれない
   ⇒「命令と服従」のみが基本的な精神生活の原理
    ⇒「命令と服従」だけでは厳しすぎるので、緩和剤としての"上からの"「慈悲」。それを服従しながら期待する。
P236

ホル・ポトらは民衆生活そのものの実態は知らない。そうなりますと、社会の見方全部が観念になりがちです。〜。彼らの理想としての人民、被支配階級、観念として美化された民衆像が、頭にこびりついてしまうわけです。
 ところが、生身の民衆は理想と違います。美悪美醜入り混じった複雑で多様な存在です。そうすると、彼らは、今度は民衆を憎むことになる。

 頭の中にある理想の民衆を救済しようとする。

P279

 正義という言葉が出なかったのも、あの論争の特徴でしたね。カンボジア紛争の解決過程で、またはこの過程の日本人のかかわり方として、何が正義であり、何が不正義なのか。それがまったく問われなかったというのは実に不思議な現象です。正義あるいは不正義を一般的に論じてもはじまらない。個々の問題に即して検証しなければいけない。この場いい場合はカンボジア紛争の内実に即して、ということになります。

 国際的奉仕とは、参加することが義務であり権利でもある活動であって、この義務兼権利をまとめて支える何ものかが必要じゃないか。その「何ものか」について、私は市民一般の理解とか名誉とかに近いもの、倫理上のコモンセンサスといったようなものを考えるんですが、どうでしょうか。