デービット.P. チャンドラー「ポル・ポト伝」山田寛訳、めこん(1994/11)

P20

 幸福な子供であったり、影響力豊かな教師だったというのは、あくまで見かけに過ぎなかったのか。その親切さはまがいものだったのか。彼は物事を冷笑的に見る政治アニマルなのか、本当に信じ込んでいるのか、あるいはその両方が混ざりあっているのか。裏切られ、迫害されていると感じることで、偏執狂の度合いが強まったのか、または自分のビジョンが他人に破壊されてしまった夢想家なのだろうか。そこに違いがあるのだろうか。〜。一人の人間として彼は分析されるのを拒んでいる。

P29

 この自分を包み隠す伝統や身につけている衣装と演じている役割、演技からくる権威といったものが合わさって、サロト・サルが自分の公的イメージを作り出すのに役立ったことだろう。

P112

 サルとその友人たちは、同士以外の者とはほとんど会わなかった。いつも仲間同士で話し、相互の絆を固め、偏執狂ぶりと自信とを増していった。

 管理する領土も住民もないだけに、実践的な誤りはほどんを犯さない。

 指導者たちは自らの思考を実践や妥協や競争によって和らげる必要がなかった。

 このページの分析は圧巻。蜜集団のみでの議論が空想性を高めた。ポル・ポトと弟子の教師と学生の関係。一般市民からの分離から産まれる空想的共産主義。そして権利欲。
P163

 クメール・ルージュが殿下に忠誠を誓い、カンボジア人民は彼のために戦っていると言うのを、信じてなどいなかったかもしれない。それでも殿下は、クメール・ルージュから真実を聞かされているようなふりをしなければならなかった。それ以外、何ができただろう。殿下は、クメール・ルージュの意のままだった。訪問の写真やフィルムを見ていると、不気味さが漂っている。すべてが見かけと異なり、誰も自分の心の内を明かせない。一握りの数の指導者を除いて、誰もが観察され、疑われ、利用されている。その意味で、この訪問は、後の民主カンプチアの政治的雰囲気の前兆となるものだった。

P177

 革命勢力というものは、政権となって機能するにはあまり適していない。〜。結局のところ、革命勢力は国を管理するよりは、奪取する方に勢力を集中する。〜。大多数の革命勢力は行政の技術に欠け、「政府」を軽蔑している。

P199

 後から見れば、この4か年計画はまさにいいかげんで、素朴で、よくわかっていない計画だ。ほとんどカンボジアが真の共産主義国家になろうとする儀式、パフォーマンスと見てよい。計画を読むと、カンボジアが国民の物質的幸福度を改善するという真剣な展望に立っているよりは、「社会主義カンボジアが、各自の計画を誇っている他の社会主義諸国と同列に並べるようにこれを書いた、との印象を受ける。それは、カンボジアの将来を支配しようとするポル・ポトの性急で、混乱し、そしておそらくは絶望的な企てだった。

*人間の暗部を知ろうという試み