ウォーク・ドント・ラン

村上龍 (著), 村上春樹 (著)

ウォーク・ドント・ラン―村上龍vs村上春樹

ウォーク・ドント・ラン―村上龍vs村上春樹

:でも、ふと「僕って何だろう?」って思うとき、僕ね、ゼッタイ小説書こうとしないわけ。

:あれを書きはじめたのは、二十一のころだから、そこまで考えられなくて、とにかく、自分が見たこと、聞いたこと、身の周りに起こったことなんかを、淡々と書き始めたんですよ。

春樹:ぼくは、一つの言葉から、なんかつくるっていうのが好きなんですよね。『1973年ピンボール』にしても、まず、ピンボールについての小説を書きたい。

:ぼくが幸運だったのは、『限りなく透明に近いブルー』を書きはじめるまでの三年間ぐらい、なにも読まなかったんですよね。〜。
春樹:ぼくも、文芸誌をふくめて、日本語の本や雑誌は、ほとんど読まなくて、ずーっと英語の本ばかり読んでいたんですよ。〜。つまりね、言葉じゃなくて、記号で書かれた小説を読んでるような気がするわけ。〜。言葉に対する不信感も、記号で書いちゃえばなくなるわけでしょう。

春樹:ぼくは、小説ってのは根本的に方法論だと思っているから...

春樹:ただ、小説というものは、消化できるものだけ呑み込んで小説になるかどうかっていうと、これは疑問ですよ。そのへんはやっぱりジレンマなんだけどね。

:相手の心をぐうっと開くような比喩じゃないけども、なんかドキッとするんですよね。
春樹:僕の場合、たしかに生な部分での共感を拒絶するという傾向があると思うんです。〜。冷たい男だと思う。そのぶんを、例えばメタファーにぶちこむ。そのメタファーについて何かを感じてもらえればありがたいと思う。

春樹;だれかにセリフでしゃべらせるでしょう。自分が書いたのにさ、自分が書いた以上のセリフになっているのね。それで、いったいこの人何がいいたいのか、自分で考えちゃうのね、何を意味するんだろうか。小説を書くおもしろみだなあ。

春樹:龍さんの場合は普遍的な領域につっこんだ部分があるのね。〜。ズボンの脱ぎっこに終っちゃうんじゃないかって。〜。生理的バイブレーションというのは、基準はないわけでしょ。感じる人は感じるし、感じない人は感じない。感性と同じなのね。

:でも、あれはきれいだったですよ。おそらく何てことないんだろうけどさ、そうやって毎日来てる人しかわからないわけじゃない。なんかね、その一晩で緑になったというのは一瞬のことでさ、ぼくがそれに感動したのも一瞬のことなんだけどね、すごい長い時間の中にいるって感じなの。〜。あれは不思議な、宗教的な時間だったね。すごい感動的で。

春樹:結局形容詞とか比喩とかいうのはある種の思考パターンだと思うんですよね。で、そういうのはこれまで読んできた教養体験である程度ね、幼児体験でもいい、培われちゃうと思うのね。で、ぼくの場合、日本の小説育ちじゃないから、日本語的な形容詞の使い方ってわからないわけ、比喩なんかが。

:で、日本文学の主流って何かとね、何かすごいつまんないものが延々とこうあったような気がする。

:自分が好きな、で、すごいなあと思って、何かちょっと、これで自分の生き方はいいんだろうかと考えさせられたような作品みたいなものを書きたいなあと思ったのですね。〜。ぼくはなんで『泥棒日記』がすごいかと思うというとね、要するにいってることは本当にきたないことなんだね、〜。ぼく、それだけ小説というか、言葉ってね、強いと思ったわけ。強いってのは。イメージの喚起力っていうか、この世の中でいちばん最下層で汚いことをね、もう、最高のさ、聖なるものに、読ませる側を持っていく力があると思ったんですよ。だからぼく、そういうものを書きたいなと思った。

春樹:〜、それは小説にするためにはものすごくたくさんの言葉を費やさなければいけない話だし、ぼくのいちばんのターゲットじゃないかと思うのですよ。だからぼくはそういう人たちを、書き得る力を身につけたいなといま切に思っているんですよね。

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 2人とも言っていることはすごいクリアで、とても鋭い。