文学概論

山村嘉己

 文学はつねに、すべての物に対して、負の姿勢を保つものであることを忘れてはならない。負はけっして無を意味しない。それは数学でいうマイナスのことで、プラスと対立して厳然と存在するものである。〜。それはちょうど実数に対する虚数のように明らかに存在して、われわれの考え方に別の視点を与えるものである。〜。このような意味でわたしは文学は虚学だと名づけたい。

 この現実の写し絵でありながら、しかも現実とは異なった一つの世界、これをわれわれはイメージの世界と呼ぶことができる。そして、このイメージを創造することこそが文学や芸術の大きな使命であるが、現実世界とイメージの世界との関係は、ちょうどある彫像がそのモデルとなった人物をはなれて別個の生命を持ちはじめるようなもので、現実を土台にしながら、その作者の働きかけを受けて、現実ならぬ現実、いや、現実以上の現実となっているのである。

 作品は先ず何よりも自分のために、自分の責任において書かれるとともに、その結果が他人にも及ぶことを十分考慮せねばならないということになろう。はじめから他人を意識するのではなく、すべての人々とともに生き、ともに感じ、ともに行動しているという自覚のなかから、自らの感じたことを明快に他人に訴え、ともに問題を考えようとすること、それが真の「明快さ」を生み出すものにほかならない。それゆえ、真にすぐれた文学とは、先ず読者に新しい、しかも重要な問題を投げかけ、それを自らの問題として追体験せしめ、この経験をへて、お互いに一つの精神的共同体につらなっているという意識を植えつけ、さらに力づよく生きようとする意欲を生み出させるものと言えるであろう。

 ただ漫然と、あるいは少しばかり意識的に文学に向かっても、それは人生について何も語りかけてはくれない。自分のなかにそれを欲求せずにはおれない衝動が溢れていればこそ、文学は人生の真実をわれわれに明かすのであって、向こうから進んで明かすほど文学は甘くない。

 (A)はだれが読んでも分かるように明確であればよいが、(B)は分からない人には分からなくても仕方がないという趣がある。その代わり、このような文章を分かる人には他に代えがたい秘かな喜びを筆者と共有している思いがある場合が多い。〜。
 〜、文学的か否かを判定する一つの大きな契機として、わたしはその文章が現実といかにかかわっているかを見ることが大切だと主張したい。それは現実につながれているか、離れているかが問題なのではなくて、その現実を写真のように事実として報告するか、あるいはそれを自らの主観の光に照らして特殊な色彩を帯びさせて表現するかが問題なのだ。したがって一つの現実をいかに間違いなく伝えるかよりも、その現実と自分がいかにかかわったかを示すことが問題になるので、文学的文章には少なくともその表現者自身の個性が色深くにじみ出ていなければならない。

 しかも大切なことは、一人一人の人間にとっては、このことばの持つ二つの意味のなかで、自分にとって重要なのはむしろ個々の特殊な意味の方だということである。「春」がある悲しい体験によって辛い苦しい季節となったものにとっては、いかに人々が「春」は明るい希望にみちた季節だと言いつのろうと、あくまでも辛く悲しい季節でしかない。そしてやがて、かれはその辛さ、悲しさを自らだけにとどめておれず、他の誰かに知らせたい、知ってほしいと思い始めるだろう。このときもかれはことばを使ってその思いを述べるしかない。しかし、この場合のことばは一般的な意味よりは、きわめて特殊な意味を込めて使用されているのだ。言わずにおれないから言う。分かってほしいという気持ちは抑えきれないほど強い。だからとにかく表現してみる、伝わるかどうか分からないけれど。かれはこんな気持ちでことばを使うのである。ここではことばは意味を運搬するよりは、その意味を保有して立ちどまると言った方が良いかも知れない。したがって、このことばに接する人間もまた、何が伝えられているかよりは、何故に、どのようにそれが表現されているかをもっぱら感じ取るようになる。〜。ことばにはこのように伝達と表現という二つの働きがあることをはっきり確認しておかねばならない。

 たとえば弥次さん、喜多さんは五十三次をたどりながら、面白おかしい事件を積み重ねていくが、そのことでこの2人の人間は少しも変わらない。〜。ところが、『暗夜行路』における謙作は、さまざまな自己の体験を追いながら、つねに「なぜ生きるのか」、「どのように生きるべきか」を自らに問いかけている。われわれはそれに接することによって自分の生きる意味をも考えざるを得ない。〜、ついには「ボヴァリー夫人は私だ」というほどまでに作者自身を打ち込んでいる。この主体性、人間性、さらには思想性こそが近代小説の面白さの根底をなしているものにほかならない。

 第二次大戦の終結とほとんど時を同じくして出たカミュの『異邦人』では、この無意味さに不条理という名称が与えられ、主人公ムールソーは人生の全ての出来事に「どうだっていいことさ」と呟き、完全に意味づけを拒否するに至っている。〜。
 事実、カミュも『ペスト』をはじめ、いろいろな作品によって、不条理な人間が不条理なりに生をたしかめ努力を描いてみせた。われわれもまたこの人間の根源的な矛盾にたえていかに生きるかをそれぞれなりに追求せねばなるまい。

 〜、われわれはこのようなカフカの人物の不思議な非現実性に小首を傾けて立ちすくむばかりである。といって、ここにはいわゆる幻想的な世界は存在しない。描写の仕方の徹底した写実性はむしろ異様なまでの現実感を生み出している。あるいはこれを狂人の世界ということができるかもしれない。しかし、これが狂人の世界と異なるのは、その非現実性のなかにあらゆるほんとうらしい現実をこえた事実の世界を啓示している点にある。われわれはかれの作品を読んだ後では何か新鮮な感動にみちてもう一度われわれの周囲を見まわすのである。

 かくて、現実反映の手段として重視された文学は、現代においては、むしろ現実認識の方法として理解されるようになり、さらに進んでは現実変革の強力な武器にすらなろうとしている。