ノーカントリー

ノーカントリー スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

ノーカントリー スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

いかにも映画文法てきな前半
後半 変化


悪の意味づけが 解体される
映画の悪役 に悪が還元されず
悪の根拠がなくなり
広がっていく


トミー・リー・ジョーンズのとまどい
解釈のできなさ
主人公的・善玉のモスはあっけなく
舞台からいなくなる
悪だけが残る
軸が消える
映画の枠がはずされる


 恐ろしいのは、殺し屋のシガーが、自分なりの理論で暴力をふるう点(他の映画だと、引きがねを引くのに理論なんてない。自分の感覚でひかれる)。そして、このシガーの理論が、彼だけに理解できる理論(正義?)で、その暴力をふるわれるほうは一方的に「非」であると決め付けられる。
 この後見た『ダークナイト』でもそうであったが、コインの裏表でやるかどうかが決定されるというのも異様であった。


 アメリカの映画は、人と人との衝突を、最終的にはこういった「コインの裏表」のようなもので決着をつけてしまうような感覚がある。そして、そうした単純な方法による決定が、"引きがねをひく"という最終決定につながる。
この暴力による最終的な決断が、交渉のはじめからある。そして、そういった感覚で人と人がつながっている。その緊張感。
 『ダークナイト』も『ノーカントリー』も同じような感覚が根底にある。"同意"とか"共感"とか、思いで伝わる、といった感覚がはじめから欠落していて、何か乾いたつながり・やりとりしかない。そして『ダークナイト』では爆弾による爆破のような展開しかストーリーにない。
 恐ろしいのは『ダークナイト』のような映画がアメリカでは受けている点。見ていて、映画の中で起こっている出来事の前提としている感覚が、まったく理解できない。
 『ノーカントリー』は『ダークナイト』でのその異様な前提を、しっかりと異様であると捕らえて描いている点でまだ見ることができる。
 シガーが自分の理論を説明する。その理解できない、彼の正義の異様さが、『ダークナイト』では普通に通っている。なんて命が軽いんだ、と。