教育の社会学

 良い本。確かに、よい教師像、よい人間像というのが求められすぎ。『理想とする人間関係』みたいなものが、現実的に存在するものなのか?と。教育の現場で、生徒と教師の間で、もうちょっと肩の荷をおろすような心持があった方がよい。
 一章の「いじめ問題と教師・生徒」のみ通読。

  1. 『いじめ』

 今日の青少年は親密な他者の存在なしには自分が保てないという気持ちを抱く者が多い。自分を認めてくれる他者の存在なしには自分を肯定できない。いじめは仲間集団の中でおきやすい。いじめられっ子は、いじめている側からの承認なしには自分が肯定できないため、関係をたてない。

 なんとなく自分の中学1年くらいのことを思い出すな。今、担当している中学1年生も、この予測の想定にあてはまる。成長過程の中学1年生くらいにとって、「からかう」「からかわれる」の関係は存在する。これが小学生高学年くらいだと、「からかわれる」側のプライドはそれほど傷つかないが、中学1年生くらいだと、「嫌だ」という気持ちは大きくなる。だが、関係を絶つのは非常にむずかしい。これ、考える余地があるな。いじめる側の類型、いじめられる側の類型ってのは、正直存在すると思うし、大人になっても弱者・強者はある。強気な人、弱気な人と。それでもって、大人になればうまいこと住み分けが起きて、2者の間で強烈なコミュニケーションをする必要もなくなるのだが、中学生は、嫌がおうにも目の前の集団と対峙しないといけないしな、と。中学生は大変だ。

 傍観者が、いじめを黙認すれば、いじめっ子を支持したことになる。いじめの承認。周りの側の方が、権力、影響力、存在感は大きい。

 講師もそうだな。とくに。踏み込まないといけない。それが義務、職務だな、と。
 なにもしない。「傍観」というのは、いじめる側に立つということなのだ。

  1. 『教師』

 アメリカの教師、teach、instruct。日本の教師、『指導』。
 teach,instructの後には、「作文の書き方」など、特定の知識やスキルをあらわす目的語が必ずくる。
 しかったり、ルールを守らせたりする「discipline」とは別。
 日本の『指導』は、teach,instruct,discipline、とにまたがる。教師の役割が明確化されていない。

 セネット「親密さのイデオロギー」(P50)

 彼は、現代社会では、人と人との親密さが道徳的な善となり、人々は他人との親密さ、ぬくもりの経験を通じて、個性を発展させたいと強く願っていると指摘する。

 こういう考え方好き。鋭い。確かに。
 なんとなく自分も、本来は未知数であり、善悪両面があるはずなのに、コミュニケーションの機会を『善』として捉えがち。そして、わけもわからず、コミュニケーション至上主義にはしっている。そんなに人と関わることが良いことなのか、少しは疑った方がいい。自分の中に、それなりに信念みたいなものがないと、他に流されるのだと。そもそもが、本来コミュニケーションって、未知数なもののはずなんだ。そこに何らかの期待をもってしまうことが、あやうい。

 「分かり合う」ことでしか親密さは築けない」というのは間違い。「礼儀」をもって他者と接することが必要。

 と続く。なにかしらの幻想はあるな。他者とのふれあいにおいて。はたして、それが全て善なのか、と。そこに対して何かしらの疑いは持っておいた方がいいが、かならずしもそれが全てではなく、一方で卑屈になってはいけないという面もある。つまりは「礼儀」「礼節」というやつに落ち着く。
 他者への「礼儀」をしっかりと持った関係が、あるべき関係なのだと。そう考えてみれば、至極あたりまえなことだが。大人の関係というやつは、そういうもんでしょ、となる。
 他者と必死になって本音をぶつけあう、みたいなことはなくなる。その必要もないのだと。親密な関係という、本音のつきあい、みたいなこと、そもそもが幻想なんだといえなくもない。これ、わかるな。