ためらいの倫理学

 たぶんそれは「よく分からない」ことについても「よく分からない」と言ってはいけないと、彼らが教え込まれているからである。「よく分からない」と言うやつは知性に欠けているとみなしてよいと、教え込まれているからである。

 そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをでれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。
 その基準に照らした場合、スーザン・ソンタグの知性はかなり低いと断じてかまわない。

 逐語的に読んでも明晰判明であり、それが世界にぴんと筋の通った整序をもたらすようなことばで書き語るという努力を私たちはあまりに長きにわたって怠ってきたのではあるまいか。

わからんって言う、物言いの立ち居地の角度がよい。
純粋な問いを発し、そこを出発点として、なにか釈然といかない部分を考えつめる。そこから、自分の立場だとか、世にまかり通る言説の裏に存在するおかしさだとかを、問いただせる。