ナンシー関の「小耳にはさもう」

ナンシー関の「小耳にはさもう」ファイナル・カット

ナンシー関の「小耳にはさもう」ファイナル・カット

 ただ、郷ひろみの体現するいろんなものから立ち込めるニオイをそのまま嗅ぐのが嫌だったから、「郷ひろみ」を「ヒロミ・ゴォー」に変換して嗅いでいたというのはある。そして、なぜ郷ひろみの生のニオイが嫌いだったのかというと、郷ひろみ自身の自己認識と見ているこちら側の認識のギャップが、その原因であった。

 ナンシー関ってなんども図書館でその本を手に取りながら、ついぞ借りなかった作家さんで、今回はじめてまともに読んだ。
 たぶんに斉藤美奈子さんの本を読んだ影響が大きいのか、やっとこさナンシー関という作家のよさがわかった。
 テレビとの間合いの取り方なんだろうな。テレビってショーで、しかも、すっごく自然に見立てた、その実ものすごく不自然なショーで、そこを剥ぎ取れる人ってなかなかのもの。いや、剥ぎ取るのは皆見ながらやってるんだろうけれど、それを文章にするのが難しいんだろう。
 おかしな世界なんだけど、見てる人はそのおかしさを、ある意味前提として受けて入れちゃってるわけで、それでもって楽しんでいる。でも、どこからかマヒしてる人もいるだろうと思う。小さい頃からテレビを見てる子なんかは、そういう感覚がないのかもしれない。テレビを作り物のショートして見る目線を無くしてしまって、それこそどっぷりはまってる人もいるだろう。なんていうか、今のオタクっていうか、アニメの世界にはまる人ってのは、そういう仮想の、仮想っぽさを、ある程度わかっていて、でもそこに投入せざるを得ないような状況の人なんじゃないだろうかと思う。ある種の仮想の居心地のよさを認知してしまって、普通に考えたら、離れて見れそうなものを無理やり自分から投入してしまうような。それも無意識に。
 ナンシー関さんて、ものすごく冷淡に剥ぎ取る。剥ぎ取るし、そのショーが必要とする、視聴者の目線もわかってると思う。視聴者も共犯だって、そういう目線があるように思う。その視点というか、距離感があるから、活字にした時、すごく面白いんだと思う。テレビをテレビを見ている側の視線だけだったら、わりかし普通な批評になると思う。けれど、テレビの中でおきている世界が、ある種の視聴者の願望みたいなものが産み出した世界なんだって考えて批評してみれば、すごくニヒルな感じをかもし出す。
 だから、テレビに出ている、いかにもっぽい人物を批評する、その目線が、現実の人物の、その仮想っぽさにも移せるんだと思う。うん、なんのことだか。つまり、現実の世界の、演技みたいなものを、テレビを通して語っているんだと思うってことやね。