美しい水死人 ラテンアメリカ文学アンソロジー

『閉じられたドア』ホセ・ドノーソ

 「いつか、ほかの人と同じような人生を歩まなかったのはまちがいではなかったか、苦労してドアの向こうに隠されているものを探し求めるまでもなかったのではないか、そう考える日がくるかも知れない。だけど、それでも構わないんだ。これが自分の本当の運命だと信じられるものがあれば、そのとおりに生きてゆけばいい。そのうちきっと自分の人生の意味が見えてくるはずだ」

 眠りの中にこそ、人生の真実が隠されていると信じている人物が主人公。起きている時間の出来事には全く関心がない。仕事も学業もそこそこに、時間がありさえすれば眠りに入る。といって夢を見ているわけではない。起きた瞬間に眠りの中の大事なことは忘れているのだ。しかし、夢の中にかならずや人生にとってもっとも大事なことが潜んでいるはずだと主人公は思っている。彼にとって現実は幻でしかない。彼の会社の社長は主人公とは対称的に現実的な人間。主人公の無口なところにひかれ、可愛がるのだが、夢の話を聞いたとたん、彼を拒絶する。主人公は会社をやめ、ますます眠ることに集中する。日雇いの仕事をしている内に、かれはたびたび睡魔に襲われるようになり、ろくに仕事もできなくなり、果ては乞食となって...
 奇妙な感じの小説。はじめはやたらと寝ている子供時代の主人公が描かれる。ここでの描写も面白い。かわいい感じても、幸せそうな感じでもない寝顔。「一個の完ぺきな世界、外部を一切必要としない眠り」なのである。ここでの「眠り」とは、孤独や、個人の内の精神的世界の象徴として読むこともできる。作中では「眠り」についてのみ語っているのだが、主人公が「眠りにのみ真実がある」というようなことを語るとき、それに付随する様々な出来事を思い浮かべることができる。社長が言うような、お金だとか女の子のデートだとか、そういう外的な充実ではないもの。ただし、それはなんなのかはわからない。ただし本人には、その「分からない」ことを追い求めることが一番重要なのである。う〜む、みんな考えるようなことではないですか? たとえそれが眠りじゃないにせよ。
 前半は主人公にすごく肩入れして読む。現実の出来事に一切興味をもたず、ひたすら眠りに真実を求める主人公に、「そうだ、そうだよなぁ」って思う。しかし終盤、主人公の人生は全くうまくいかない。ろくに仕事もできなくなる。眠りを追い求める姿勢はだんだんと描かれなくなり、ただただ苦しいばかりの姿が描かれる。眠りに人生の目的をもっていること、俗世に決して左右されない姿は終盤清くは描かれなくなるのだ。ただルペンになった貧しい姿のみである。挙げ句の果てには社長に助けを求める始末。ただし、この小説は、主人公、社長、どちらが正しいという終わり方はしない。見事なラスト。今のこの時期読んで良かったと思う。ターニングポイントといえるほど、だいぶんに自分を変えた。明瞭なぐう話を得たと思う。人生とはなんぞや、を考えることができる、とってもよい縮図だ。判断は読み手で決めることができる。答えは読み手しだいで得られるのだ。決して美しくない終盤の主人公の姿。しかしその死にぎわは美しいと言える。ただそれが境地にたどりついたとはだれも判断できない。究極の選択、極端な設定であることは確か。少なくとも今の自分にとっては一番大事なテーマでもあった。
 *この小説は途中まで読んで、「どうしても外で読みたい!」と思って、外に出かけて読んだ。昨日は天気も良かったし、風も強かったので、胸騒ぎがしたってのもあった。近くの山の上の墓地公園まで行く。「外での読書もなかなか良い」ということを知る。寝転がって読むと、本の後ろは青空だし、風は心地よいし。「ラテンアメリカ文学は外で読むにかぎるな」って分かったような気になる。ちなみに、意識的に外で本を読んだのも、ラテンアメリカ文学読んだのも初めて。どっちもいいものだ。高槻なはれづらくなったなぁ。