ユービック
- 作者: フィリップ・K・ディック,浅倉久志
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1978/10/01
- メディア: 文庫
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月に行くあたりで、主人公が敵はホリスじゃないか?と思った時点で作品全体はホリスを敵として進んでいく。その後で敵は「A」じゃないか?または「B」じゃないか?と主人公が推測した時点で、作品全体がそっちへ流れる。これってあまりにもご都合主義。主人公の推測だけで、ストーリーが流れていくのは読んでいておかしいと思う。推測に至る以前の明確な根拠が必要だろうって思う。ホストにしても、パットにしても、主人公が敵であると思えば敵になるし、そうじゃないと思えばそうでなくなる。一貫性が完全に崩れていると思う。いっけん論理的に書かれているように思えて、実はめちゃくちゃだ。超能力までを範囲にとらえて、ストーリーに整合性を与えようとすると、やはり相当の技能がいると思う。だから、おそらく一つの作品であつかえる超能力は多くて2,3が限界だろうと思う。それ以上増やすと物語は崩壊してしまうんじゃないだろうか。だから優れた作品は1つの超能力を基軸にして、その能力の範囲で世界観に整合性を与え、うまいこと価値観を逆転させるなどして、成立していくんだろうと思う。あと主人公の心理状態の変化の原因がよく分からなかったりする。なんでそんなに安息所の主任を嫌うのか?とか、一方で簡単に同僚を信頼したり、疑ったりと、ちょっと両極端で支離滅裂。作者の性格の反映なのか? たまたま街で出会った若い女が、ものすごい重要な人物であったり、この辺は作者の感覚を疑う。もうちょっとちゃんとしたプロットが必要なんじゃない? あまりにも作者の偏見が介在しているように思う。コイン式ドアへのいらだちとか、コイン式ドアが一般的な社会で、主人公が小銭をもってないってのはありえないだろう。仕事に支障をきたしまくりやんって思うが、この辺は作者の生活感覚なんだろうなぁって思う。まぁアンチヒーローへのこだわりなのか、それにしてもだらしなさ過ぎ。
ディックの作品全体の緊張感は、人間の根元的な悪さ、ずる賢さに帰因してる部分が多いと思う。人は裏切る、ころっと変わるものだ、そして上司も部下も親も恋人も、まわりの奴みんな自分をはめるためにすべては仕組まれているんだ、なんて考えてしまう状況が簡単に起きる。そこから命の瀬戸際、ギリギリの部分でたえず目の前の人が信頼できるかどうかを判断し、切迫した状況の中で危機をしのぎきっていかなければならない。そこから徐々に、もうだれを信じてよいのか分からなくなり、果ては、この世界の仕組みそのものが何に依っているのかも分からなくなる。自分ひとりで確かな情報を得ようと駆け巡るが、その一片すら至極簡単にあっけなく消え去ってしまう。ついに自分は何者でもなくなる。そしておそらく僕自身がディックの作品に求めているのは、そういう瞬間を味わうためだと思う。なんてこの世界はもろくて陳腐でうそ臭くゆらいでいて、人はみな浅薄で自分のことしか考えてなくて、人間関係はあまりにもはかない。おれは根元的に不幸だが、しかし信じられるのは自分だけで、そしてその認識から全ては始まるんだって感覚。それが現実なんだって認識。これがディックを読めば確かめられる、そんな気がするのだ。崩壊から得られる確信みたいなもの。世界が崩れてはじめて自分が現れるって感覚を味わうために。
*ひとまず、SFは当分は読まないと思う。真剣には読まない。ちょっとの期間卒業。「流れよわが涙、と警官は言った」がタイトルがかっこいいんで、ちょっと気になっている。次読むとしたらこれ、だけど、まぁ当分はいいだろうと思う。「ヴァリス」はこれまただいぶん先になると思う。ディックの作品はこの先気合い入れて読むことになるだろうが、とりあえず今は一区切り付けたい。読書から離れたい。ファンタジーを読みながら思ったのだが、ファンタジーはなかなか視覚的にイメージできない。だけどSFはすんなりイメージできる。これはSFは都市の物語で、ファンタジーは草原の物語だからじゃないかと思った。ぼくは自然の風景で進行する物語が想像できないのだ。「草原の上を走る馬」とか書かれても、「?」となってしまう。その点、「コイン式シャワーに硬貨を入れて」なんてのは簡単にイメージできる。SF的未来都市の方が、森林よりも簡単にイメージできてしまうってのは、なんだか悲しい。もうちょっと絵本など読んで想像力を鍛えにゃならんって思う。ファンタジーってのは、やっぱ都会生活をしていない年齢に読むべきなんじゃないかと思う。