現代写真のリアリティ
- 作者: 京都造形芸術大学,京都造形芸術大=
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2003/06
- メディア: 単行本
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大島洋
カメラを手にすると人は旅に出たくなるのだ。いわばカメラは、旅を誘発する不思議な装置のようなものである。
人はみな「旅をしないと駄目になる」と、どこか心の隅で感じているのかもしれない。その理由は多々あるとして、ここでひとつだけ示すとすれば、広範な意味での「好奇心」ということになる。これをもう少し別の言い方をすれば、淡々と過ぎていく日常生活への「刺激」であり、眼前の出来事、目に飛び込んでくるものすべてを見ようとする「欲望」であり、自らの世界的な視野を押し広げようとする「コスモポリタニズム」であり、旅で出会った人との思いがけない幸福感や、トラブルとアクシデントによる疲労困憊の果ての不思議なカタルシスや、身体で感じることと眼にする光景がもたらしてくれる「知的覚醒」への希求である。
表題にある「旅」は「私」=写真家の内面への旅を指している。
思索の広がりと営為
「決定的瞬間」の写真は作為的であり、そのなかに真実はない
写真に写されたことは事実であり、そのなかに真実があると言うような、素朴に過ぎる写真の力への過信はすでになく、真実はどこにも存在しないものか、見たこと、経験したこと、そして撮られた写真と自らの内面との間に捜し求めるものだった。
行きたい所に行き、会いたい人に会い、驚き、怒り、思いがけない幸せな時を過ごし、好きな人や、心を離れなかったものや、「自分にとって興味のあるものだけ」を撮り、そうした私的な眼差しによる旅の断片が、旅の時間に従って分厚く積み重ねられた写真集だった。
「私にとっての写真...、それはどう言ってよいのかわからないことを伝えようとする、形のない断片の集まりです。私がしたかったのは、人生と同じくらい不可解な写真を撮ることだった」クライン
とまどいや不可解であることを容認しないで写真の全てを言葉によって理解しようとするような文明批判的な見方がほとんどである。
むしろまもなく出現するポップ・アートを予期させるもの
「世界を小さい思惟によって塗りこめ、外界を被写体をしてのみ対象化するところから」ドキュメントはうまれない。
クラインにとっての「写真を撮るという行為は、捕獲された世界を表現することではなく、漠然とした無限の世界に向かっての終わりの無い探求と認識の旅」ではないかと。フランクとエラスケンの旅は、「私」を旅する旅のなかで一枚のセルフ・ポートレイトを求める旅であったのに対し、クラインの旅は一枚のセルフ・ポートレイトさえも無縁の、無限の世界に向かっての終わりの無い探求と認識の旅であるということだ。
*旅と写真、自己への探求、真実、人生とか、今回の旅行(旅)で感じたキーワードが思想となって結実してる内容だった
こういった本を読むことは必要。作者も写真家であり、旅人。旅人として、また写真家として得た思考は、ぼくの何十倍も先を行っている(ぼくは写真家でもなんでもないけど)。とてもよく分かる。
ぼくが撮った写真は無限のポートレイトには向かってないなぁ。あくまで一枚のセルフ・ポートレイトだわ。