[小説]地下室の手記

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

 論の展開も、語り手の自意識が異常に強いがゆえに常に他者の評価を意識して先取りし、その他者のことばによってしょっちゅう中断したり方向転換したりするものだから、堂々巡りをしたり論理が破綻してしまうこともしばしばで、大いに振り回されたが、注意深く読んでみると実に込み入ってはいるものの、それなりに辻褄が合っているのだと納得させられたところもある。

[小説]地下室の手記

地下室の手記 (新潮文庫)

地下室の手記 (新潮文庫)

 「意識は病気である」というテーゼを、彼は文体そのものによってさえ表現している。『地下室の手記』一編のモノローグには、おそらく他者を、さらには他者の意識に映る自己を意識していないような文章は、一つとしてないだろう。かくして意識は、二枚の合せ鏡に映る無限の虚像の列のように不毛な永遠の自己運動をくり返し、ついになんらの行動にも踏み出すことができない。ただ、その無限の像の彼方に、これまでだれものぞき見たことがないような実存の深淵を見いだすだけである。

[小説]プルースト

プルースト (CenturyBooks―人と思想)

プルースト (CenturyBooks―人と思想)

 ということは、つまり、この小説は通常の小説とは違って、まるで論文のような構成を持っているといってもよいことになるだろう。普通の小説ならば登場人物が現実の中に投げ入れられ、作者はこういう性格の人物ならばこういう現実の中でこのように行動するのではないかと考えながら物語を紡いでいくということが考えられる。つまり小説のストーリーを展開させていく動因は、現実の中での人間行動を規定する情熱や憎悪をシュミレーションしたものとなる。『失われた時を求めて』はこうしたやり方の対極にあるということができるだろう。

 ところで、作者が小説の最後で展開している理論によれば、メタがーはこの二つの要素をただ並置するのではなく、この二つのものを融合させる。つまりあるものやある観念は写実主義の作品のようにただ言葉によってそこに置かれるのではなく、メタファーを加えられることにより「比較されるもの」と「比較するもの」に共通する感覚を付け加えられることになる。
 プルーストの文章が何か現実の客観的な描写というよりは、悲嘆や喜びといった感動、生のさまざまな色彩にいつも染められている理由の一つはここにある。

 ここではプルーストの幾つかのユーモアを列挙するにとどめたが、彼のユーモアの特質の一つには、重大と矮小、深刻と軽薄といった対立したものの共存、本来共存できないものの共存がある。

 実際、プルーストは作品の中で同性愛を滑稽でおぞましく、グロテスクなものとして描き出している。しかしそれが同性愛を侮辱してそういう態度を取っているのかというと、そうとばかりはいえない。彼はこの滑稽さ、グロテスクの中にある種の感動を見いだしているのだ。

 こうした芸術家たちの作品の中にはある共通の色彩のようなもの、何か非常に輝かしい光を見てとることができるが、それと同じものを『失われた時を求めて』にも見ることができるのである。それは人生に対する一定の態度のようなものであって、意欲するよりは愉楽と愛情をもとめ、日常生活を一皮めくるととんでもない魅力ある世界が隠れていることを知らせてくれる。これはおそらく、高度な消費社会に特有な感受性であって、そうした輝かしい世界の存在を知らせることができたという点で、十九世紀以前の芸術と一線を画するのである。

 彼が『失われた時を求めて』を書いたのは何よりもまず、自己弁明の書としてである。自己の浮薄に見える外皮の内側にはこれだけのものがあるということを人々に知らせたくて書いたのである。自分が真に自己の目で現実を見るとき、現実はこのように見えるというこを書いたのだ。自己の全てを投入した。ということはつまり、彼は自己の表出のために物語という形式を借りただけで、普通の意味で物語を作っていくことにはあまり関心がなくなっていた。プルーストが作り上げた作品は、何よりもまず自己の感官を刺激するもの、自己の魂を揺るがせるものを表出することに重点を置いているから、素材としては自己のあまりパッとしない人生で十分だった。それは物語のようでもありんがら、自己主要の評論でもあり、また詩でもあるような作品である。つまり小説でありながら小説ではない作品、小説の可能性を極限にまで広げた作品である。