身体の零度

身体の零度 (講談社選書メチエ)

身体の零度 (講談社選書メチエ)

本書は、東西の豊富な文献を駆使し、泣きかた・笑いかた・行進・舞踊など人間の表情や動作に立ちむかう。そして、身体へのまなざしの変容こそが、近代の起点であることをあざやかに検証する。社会史・思想史のなかに、身体を位置づけた力作。

  • 時代とともに、身体へ対する見方は変化している。
  • 人間の身体は、作られるもの、文化である。
  • 弓のような「道具」は、人間の精神を具現化したもの。

⇒この「道具」と「身体」の摩擦の関係がおこる?イメージの世界と現実の世界との関わりあい。客観世界と主観性のなんとかってやつに結びつくな。自己と世界の関わりあい。

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 ファッションが、個人の内面を表現するように、何かの象徴として、人間の体を変形させる儀式はあったのだろう
 立ち居振る舞いも、文化によって形成されているって最近、構造主義関係の本で読んだな。それと関係してるのか?
 バレエ入門のときにも感じたことだが、「歴史」と照らし合わせて検証ができるってのがすごいな。歴史ってある種、絶対なところがあるから。確かに軍隊の成立によって、はじめて集団で歩くって必要ができたわけだし。そう考えると、明らかに「身体」の変化はあった。
いま、普通に思っていることでも、どこかで歴史上の転換があって、その歴史にまで立ち返って考えてみたとき、初めて「いま、普通に行っていること」の不自然さを知れる。これが構造主義ってやつなのか? とにかく、こうやって時系列にしたがって人間の変化を大きくみれる目線はすごいな。あくまで知識の基盤は歴史なんだな、と。ま、でも、こういう本って、あくまで「歴史」という虚構にたった壮大な"解釈"のような気もするが。
 学校の「体育」がはたした役割は大きいな。これは身近な出来事だから、納得する。体育の時間って、確かに普段とは違う心持で体を動かしていたような気がする。体操とかって、まさしく。自分の望んだ体の動きではない。かんぜんに、やらされた、強制された動きである。